データ・サイエンティストは可視化の夢を見るか?

Does Data Scientist Dream of Visualization?

プログラミング教育に思うこと

今日和。
昨夜は「いつもの店」に出かけると、そこに大学の人熊先輩が同期を連れてやってきました。
話題の一つが「プログラミング教育」。
先輩もわたしも大学在籍時は、コンピューター演習のヘルパーをやって同期や後輩を教えるぐらいにはプログラミングに慣れていました。
先輩の持論は「形式論理を操れもしない子供にプログラミングを教えても、挫折感を持つ者ばかりが増える」です。
また「プログラミングの世界はごく少数の天才たちによって成り立っているのであって、そのポテンシャルを持った子供を英才教育ですくい上げられれば良い」とも言っています。

わたしのような「なんちゃってプログラマー」でも同意半分、反対半分、といった次第です。何故でしょうか?

実は近年、大学教育に若干関わったことがあります。
そこで目にしたのが『リメディアル教育』という名の補習です。
要は小中高で取りこぼしてきた学問を、電子ドリルで一気に補って即席栽培しよう、といった話です。それこそ「分数の割り算」で引っ掛かって、その失敗の体験から、あとの数学学習にずぅっと忌避感を持ってしまうような子がざらに居るようです。
日本の大学はあまり近代大学の体を為しておらず、残念ながら中堅以下は実質的に「職業訓練校」です。でも、そこでの教育内容にかぎっても、やはり初等・中等教育を身に着けていることは重要なのです。ですから即席でも構わないので、入学直後に電子ドリルを受けてもらう、といった大学が散見されます。

ほんとうは日本の社会構造、産業構造の問題の筈です。
それは明治維新以降の「富国強兵」の過程で、当時のドイツ式の新兵教育システムを一般的な庶民教育に導入してしまった所為でもあります。
どうしたらいいのかなあ?となると『教育』の重点化、特に(上からの押しつけではない)『寺子屋』形式の復活など方策はあるように見えますが、現政権は見栄えのする看板は掛けるもののその実、逆行するかのような政策を連打しているように見えます。
そのひとつが『小学生からのプログラミング教育必修化』なのです。

某研究室のお手伝いを足かけ数年ほど続けて思います。
「子供のうちはそれこそ自然と触れて、おもちゃも使って、たっぷり遊んでおくのが大事」と。
プリズムを使って太陽光や蛍光灯の明かりを分光して違いを観る。
お風呂でちゃぷちゃぷ水遊びして、お湯の流れや波のでき方を観る。
1 Hz だけ異なる音叉を 2 本同時に鳴らして、うなりを聴く。
植物や昆虫と慣れ親しんで、野山を駆けまわる。
そういったことが大事なんです。それこそ、ノーベル賞級の基礎的で偉大な発見のためには。
べつにノーベル賞を取ることは単なる指標に過ぎませんが、これから相当困難な将来が予測される人間社会において、自らも生き残り、他者のためにもなるイノヴェーションをさまざまな場面で起こして行くには、やっぱり地に足の着いた人物になるべく教育していくしかないんですね。

もし、プログラミング教育を広く行うにしても、それは高等教育においてでしょう。
プログラミングするには形式論理だけではなく、数理モデルを組み立てて演算する能力や、現実の自然現象、社会イヴェント、業務プロセスなどと絡めてコーディングに落とし込めるようなスキルも必要です。
いまの政権が持っているのは非常に即物的で短絡的な見解で、そんな政策が出てくる背景に、彼らがろくに苦労しておらず、現実の社会問題と真摯に取り組んでこなかった怠慢が観られます。


わたしは偶々、珍しい大学時代を過ごしたようです。
自然科学をふくむリベラル・アーツにおいて俯瞰的教育を実施できているのは、日本では数校しかないそうです。
結局、今日の日本の困難は『教育の失敗』にあるような気がしてなりません。
『小学生からのプログラミング教育必修化』が「傷口に塩を塗り込む」結果とならないことを危惧しております。